昭和47年3月23日 朝の御理解
加藤恵美子
御理解第82節 大蔵省は人間の口をみたようなもので、その口に税金が納まらぬときは、四分板張つた戸一枚で寝てはおられぬ、どこの太郎やら次郎やらわからぬようになろうぞ。税金を納めると、これは自分の力量での事でございますから、沢山、税金出も払わして頂けると云うことは有り難いけれども現在の自分の力でこれだけの事はちょつと重みが過ぎるそこに税金の税金こ切りにも行かなければならん、そこでまあこぎりつて負けてもらうなら、負けてもらう事になつて、適当な税金をこれだけなら払えると云う税額が決まるわけです、私はあの信心をさして頂く者はそのいよいよ、そうだと決まつたら、これはもう天地に対する還元の気持ちで神様へのお供え気持ちで、えー払わせて頂かなければいけんと思いますね、税金払いち来たというのではなくて税金払わせて頂いたという事にならなければ、いけないと思うですね、税金払わして頂いたと云うことは私は真心だと思う、例え税金と云うものを沢山納めたほうが良いからと無理をして納めにゃならん、ということでは決してない、それはたけだけしそうにね、間違いがあつて沢山税金を納めなければならんと云う事になつとつたら、それはそれを調整をしてもらわなければいけない、私どもはこうだから、このくらいでなからなければ納められないなら納められないと云うことを大事でしょうけれども、兎に角納めさせて、だからそのそうと決まつたらです、だから、それを惜しい惜しいと、本当なんいもならんような、その金を払うような、いうならば又その金について行きたい様な心で払うたんでは、その金が死んでしまう、やはり、そうと決まつたらたら払わして頂くという気になつて私払わして貰うことはね、真心だとね、天地が聞いてござる、天地が聞いてござる、いよいよ払わなければならないと、これは税金だけの事ではありませんよ、決まつたらですね、本当に払わして頂くと云う気にならなけりゃいけない、お供でも、お供えをすると云う心にはおかげにならん、お供えをさして頂くと云う心におかげはあると、仰つしゃる、信心さして頂くと段々その辺の所が同じ、いうなら出しものをさして頂くでも本当に気持ち良く有り難く出させて頂ける、大蔵省はいうならば人間の口を見たようなもので、その口に税金が納まらんときにはね、それこそ、どこの太郎やら次郎やら分からないようにね、いうなら季節のない米のような乱れた世の中になつてしまおうとこう言うのです、税金が納まるからこそ、お国が立ち行くのであるね、ならば拙角支払いをさして頂くのだからね、税金を払うてきたと云うのでなく払わして頂いたという内容にならなければならないと云うこと、そこで今日はそこん所を今日は霊祭ですからね、春秋の霊祭、いわゆる霊様の御大祭です私はもう夕べ、あー12時から丁度2時、ところがまあ、1時間半休む時間があると思うて休んだけれども、どつこいその霊様の前で色々頂いた事が、頭に浮かんで、どうしても休まれない、それから、とうとう起きてから、お風呂を頂いたり、シャワーかかつたりして、丁度もう3時半になりましたから、そのまま出てきたんです、ははーだから夕べは、おかげでー眠もさせんで、おかげ頂いた、ということが頭にね、あのこびりついているかというと、私はこの前から、あの霊様のお呼び出しをさして頂くのに、あのジャンボ茶碗というのがありますね、コーヒー茶碗のこんな大きいのにあれにいつぱい、あのたぎるような、熱いお茶とそれから冷たいお水を、それからあの私が夜通し致しますから、こりゃもう昔からあの霊様のそれにかかる前にお夜食をしてからかかるんですね、なかなか、やつぱ力のいる所が私、風邪を引いてあの体も悪いし、この前からそうしておりますから、お夜食のお供えを、色々みつくろつて作つて下さつておりますから、それをそのままお供えさして頂いております、まあ色々ご馳走を色々作つてあります、それをその、お供えさして頂いて、その霊様のお呼び出しにかからして頂きます、もう私は本当に思いますことは今日のまあご理解頂きますならね、どこの次郎やら太郎やら分からない様な霊がもう本当に、もうそれこそ沢山のことですね、私の供えてある熱いお茶に私の供えてあるその冷たいいそのお水にね、もうそうですね形でたつたこのくらいの、どんぶりですけれどね、もう本当に沢山の、どこの次郎やらどこの太郎やら分からないうな御霊たちが、いつ杯かかつて来ております、まあそういう、この、そういうものだと云うことを、教えて下さるんでしょうけれども、これがどうだろう、例えば、その遺族の人いやもう遺族もないと云う人も沢山ありましょうね、いうならもう、お墓に参りますと無縁仏というのがありますね、だあれも世話をする人が無いと云うのですね、いうなら大蔵省には人間の口のようなものであつて、そこに税金が納まらなければ、どこの次郎やら太郎やらわからんようにあろうぞと仰つしゃるように霊様も同じ事ですね、例えばお立ち日を大事にするとか、とりわけ教会での秋季霊祭などの時にはです、それは霊様への丁度口のようなものなんですね、ですから、それが例えば霊様へのご供養と云う事にもなるわけです、そのご供養する人も亡くなる、ご供養受けることも出来ないという霊自身の力も無いという霊達がです、ねだから霊のお祭りと言うのは一つは、そういうこともあると思いますね、ご信者の皆さんの ? やからの霊さんだけでなくてね、そうした縁もゆかりもない様な霊達迄、どこの次郎やら太郎やら分からない霊達までがその御霊祭にいうなら、あてこんでその助かろうとする霊達の姿と云うものをですね、拝まして頂いてから本当に私達がね、本当におかげを受けておかねばいけないなとね、魂の世界ではね第一にね、この世にありました時の財産というものが、全然ものを云いません、霊の世界では、こりゃもう、あの人は絶性の美人であつたと、きりょうが良かつたからというて、あちらでは誰も見向きもしません、きりょうも当てになりません、はあ、あちらあなた総理大臣になつちゃつた、というても、そういう地位やら名誉やらというものももうそれこそ霊の世界と云うか魂の世界ではもう何の役にも立ちません、ね、どんなに分別がある知恵があつたというても人間の世界では、それを重宝がられたり丁重に扱われますけれども御霊の世界ではそれは何の役にも立たないと云う事です、どんなに億万の財産を持つておつてもですあちらでは何の役にも立ちませんです、いわゆる霊の世界では、ただただ霊がね、どれだけ清められておつたかと、いうだけなんですね、ですから私、昔はこの世に生を受ける人間として、このよ世に生を受けると云うことはね、けど私は12時からさしてもらいますから、それまでテレビをちょつと見せてもらいよつたら丁度芥川龍之介の宝鏡じんのしか何かと有名な小説がありますよね、その説明があつておりました中にね、人生は火花のようなものだと、言つてますね。
だからその死ぬるというその瞬間がね、厳かなもの尊い物でなからなければならないと云うてある、確かに私どもが例え百まで生きられたところでです、ね、例えば数億年といつたような天文学的上数字をもつてするならです、私共の一生というのは、瞬きをする間である、いうならその瞬間の様なものであるねそれがね、その瞬間的なもんだけでもです、それは威厳に満ちたもの、厳かな尊いものでなからなければならないね、どうでしょう人生例えば50、わずか50年というが、さあ60年でも70年でもかまわんその、なら50年70年をです、ただね自分の我情我欲の為にです、その人のー生が費やされてしまつたとしたら、どういう事になるだろうね、人生の重大時ということは私はその死ぬる瞬間のことだと思うね、これは私自身もね、まだ死んだ事のないものが死んだ事のある者の様なことを言うてはおかしいですけれども唯私が感じられる事は本気で信心とは本心の玉を磨くものである、信心とは日々の改まりが大事としてです、改まらして頂く事にー生懸命に勤め、その事柄、問題を通して本気で本心の玉を磨いて、いわゆる魂を清めていく事に精進させて頂く事にならせて頂いたらね、私の心の上にです、まず第一に、どのような場合であつても、驚かんですむ安らぎの心と云うものが、備わつて来たように感じること、何を見ても有り難いなあと感じれること、それは難儀なことだと普通では云うけれども御神意として有り難く頂ける、そういう心がです、はつきりしてきた事、これだけは、だからこの調子でです、私共の心がいよいよもつともつと清められて行くならばです、これは死ぬる瞬間も、そのように尊くなるだろうと私は思うのです、昨日えー綾部さんのお導きで日田からある老夫婦の方がお参りになられましたが、まあそんとき、話聞かせ頂いたんですけれども、もう大変な金満家でエーだからもう大変な資産家なんですけれども、もう倒産寸前にある、そのおじいさんと言う方は、そこに弟子に来てもうそれこそ金儲けの名人、もうそれこそ始末倹約をなさる、もう出すこつはもうふるふる好かんと言う生き方で、唯ため込むばつかりで大変な財産が出けた、去年の暮れに昨日参つておつた或る大きな水商売なさつておられる方達ですから、そこでその方達一門の毎年なんというですか、まあ年忘れの様なことをそのお店でなさる、そリャもういつもと同じでしょうに、それこそまあ豪華を極めたものであつたという事、そう云うことを私共は、見せなさつてまで三ヶ月それをしらさつしゃらなかつた、倒産している事を、もうそれこそ、もうそれこそ日田じゅうの者がびつくりている、あそこが倒れるとは、ちゅうちから、ところが下の方に多く、それこそ、うつろが漏るような物が、上のほうは立派に立つて、いるけれども石垣の方から、があらくずれてしもうちょつた、だからもう、ひつくり返るるのも倒産寸前ぇだそうです、それで、その老夫婦の方達を先日ちょつと見かけられ、もうそれこそね幽鬼のよう、いわゆるなんと言いますかね、幽奇、もうこの世のものとは思われないような、その姿に、たつた三ヶ月になつておられるのを見逢わせて頂いて、それこそもうぞつとしたと話しておられます、ね、人間がね、我情我欲でため上げるね、例えばです、それは私はそうばつてん、それを聞きながらね、そりゃかえつて身が軽うして、ようあんなさろうと、もう70にも?だからもうあんまり長くもあんなさらめから、身を軽うして、あちらへ行きなさつた方が良かろうと私は思う、それを、あちらへ持つて行かれるわけじゃなしいから、さつきから申します様にね、もう御霊の世界であつたらどれだけ億万の金があつても、それはもう何の効用もなさんのですね、ぞくには言いますよね、地獄の沙汰も金しだい、と言つた様な事を言いますけれども、それは現世での事、あの世での地獄の沙汰は絶体金次第じゃいかんですね、そリャこの世ではですよ、丁度、気にいつちょつたつて金を積んで出してくるという手がありますからね、けれども、そんなら私が頂いている心ですたい、云うなら極楽の心ですたい、何を見ても有り難いと思う心ですたい、どういう中にあつても有り難いなーと思われるような心を、ほんなら億万の金を積むから私にそういうおかげを下さいというたつちゃ、だあれんやりてはないです、だから結局、地獄の沙汰は金次第かも知れないけれども、極楽の沙汰だけは金次第だけではいけない、私共がそこんところに気ずかせて頂いてです、本気で魂を清めさして頂くと云うことにね、本気になつておらなければ、さあちいうて間に合わんということね、本気で魂を清める事に精進さして頂いてね、清めることを精進頂くに従つて、清まつてくれれば清まつて来るほど有り難い尊い心の状態というのが約束されるのです、だから、そういう心の状態が、でおれれるから、この調子出、ほんなら、あの世に霊の世界に行けるのなら、こりゃいよいよ有り難い事になつて来るぞという安心が生まれてくるわけなんですね、だから、その死の瞬間が、厳かな尊いものになつて来るわけです、魂の世界、霊様の世界でね、それこそどこの二郎やら太郎やらわか卵で、そして、まあちょつとしたその縁の糸に縋つてですね、年に春、秋にあるところの霊様のお祭りのような時にですね、縋つて来なければならないような魂で、あつてはならないと思います教祖様のお言葉の中に人間は生きどうしが大切じゃ、生き通しとは死んでから後、人が拝んでくれるような、ようになることじゃと仰つしゃつておられますね、生き通しと云うことは死んだ後からでも人がいよいよ拝んでくれるということが生き通しじゃと仰つしゃるね、子供やら孫やら拝んでくれよつた、、けどもその家が?もうしまえたと、家系が切れたと、誰が拝んでくれますか、信心をさして頂いて、いよいよね、生神金光大神はいよいよ家繁盛、子孫繁盛の道を教えるのじゃと仰つしゃるのですからね、そういう道を私共が解からしてもらう、そういう道を辿らしてもらうね、いよいよ親の代よりも子の代、子の代よりも孫の代と繁盛して行くおかげの元を作つておくと云う事がですね、内のお祖父ちゃんが何代前のなら何がお道の信心をさして頂いて、お徳を残しておいて下さつたおかげで、信心を残しておつて下さつたおかげで、この祖父ちゃんのおかげで家がいよいよ繁盛しておると言うことに、なればね、当然、拝まれることになりまね、私共が死んだ後でも、いよいよ拝まれる程しの信心を身に付けておきたい、そこで例えば今日の霊様のお祭りね、皆さんが色々思いを込めてお供えをなさる、あれは又は不思議な不思議なというか、うちには、はらちゃんと霊様は、お祭りしてあるから、もう内でも、もうボタ餅が好きだつたからボタ餅を、辛いもんが好きだつたからお酒というて、もう内の御霊様の前に立派に供え?お供えをさせて頂いて拝むのと教会の御霊前にね、沢山の同じ例えばお供えをさして頂いて拝まして頂くのとは、中身が違うです、それはどういうことになるかと云うとです、そういう例えば私共の真心と云うかね、夕べ神様に色んな事をお願いさして頂いておつたら、あの真赤な朱塗りのおぼんを頂いてね、丁度お替わりを、あのするようにね、おぼんであのもうー杯いかがですかと云うて出す所を頂いた、真赤な朱塗りのお盆でね、ですから、私が感じたことは真赤という事は赤い心という事です、赤い心と云うことは真心と云うことです、真心で、お重箱ー杯お供えして頂いたのは限りが無い程にお替わりが出来るんです、という ? しました、ですから限りない程しのお替わりが出来るものをです、自分の家のやからうからの霊様だけでなくて、自分の家の先祖の霊様だけでなくてね例えば私今日感じました、どこの太郎やら次郎やら、分からない程しの例えば霊達が沢山かかつてくる人達にもです、お替わりが差し上げられる程しの働きは教会がかりは出きんのです、まあそう云う事を話しますと、大変込みいつた事になりますけどもね、教会と云う所はそういう働きがある所なんです、まあその為に教会が神様がつくんなさつたと云うてもよいくらいです、ですから、まあ佛教的に云うならね、本当に供養が出来ると云うことです、自分方の先祖だけでなくてですね、縁もゆかりも無い霊様かも知れんけれども、云うなら難儀をしておる霊、いわゆる迷うておる霊、苦しみの霊ね、そういう霊達にも、例えば今日一日だけでありましてもです、喜んでもらえる供養が出来ると云うことがね、教会でならし春秋のいわゆる御霊祭には、特別な一つの仕組みというた物があると云うことです、私の方は合楽の御霊やに、お願いしていないから、あちらにお祭りしておらんから、などとよく言う人がありますけれども、これは私の信心なんです、まあ本当言うたら私はもう世界中の氏子のね、迷いの苦しみの御霊、これはもう毎日の事です、朝晩の事、世界中の御霊の事を、祈らなければおられない思いが致しますからね、それ特別、御記念さして頂きますけれども、ましては合楽にご縁のあつた限りの人達ね、例えば合楽というてーペンならーペン参つて来たが最後、その人が助からなければならないと同時に、その人の根である所の先祖が助からなければならない、働きと云うものが、私は祈りの中に加わつていないはずがないです、だから絶体にね、例えば私は合楽にー辺しか参つてないという人の霊様、でも必ず見えられるだけの働きが或るとね、内はだからおまつりも、しちょらんけんで玉串も、もうあげん、という人が或る、そういうこつちゃない、玉串が或る限りね、お祭りも、お参りして頂き玉串もあげんならんね、又、そうした先祖の御霊と云うならば、今日は面接も出来るというような心持ちでね、お祭りは拝まなければいかんと思うですね、今日はエー税金を納めるということで税金をはらいげ行くというけれども、はらいげ行くと云うけれども、払わして頂くのだとね、そういう心がその税金が生きてくるのです、ね、それを例えば払わんと云うようなことになつて来るとね、お国が立たないように、今日は、私は今日の霊様のお祭りは、どこの次郎やら太郎やらわからん霊様の口にですね、冷たいものが欲しい人には冷たいい物を熱いものが欲しい人には熱いもの甘いものが好きな人には、辛いものが好きな人には、それが与えられるだけ、いうなら、そういう供養の日であるとしてですね、私共がおかげを頂く、もちろん自分の先祖ゆうなら、うからやからの霊の上には、なおさらのことね、そういう例えば霊様にです供養も出来る様になつた時にです、どこの太郎やら次郎やら分からない霊の世界で、いうならば迷わなければならない結果になつて来るのですからね、そういう霊達の上に思いをかけさして頂くと云うだけではなくて私共が、いよいよ霊の世界に安心して行けれるだけの信心、いうならば後々の人が拝んでくれるほどしの霊それはです、私共が現世に或る時に、いよいよ魂を清める事に精進さしてもらつて、それこそ清まつた魂、いわゆる我と和賀心が自分で自分の心を拝みたい程しの心をね、いよいよ造り上げて行く精進をなさなければならないと云うことであります、そういう意味でどうぞ、今日の霊様のお祭りを一人一人がね、赤い心を持つて、それこそ何ぼでも、お替わりを、さして頂けれる、お給仕さして頂く様な思いで、今日のお祭りを拝みたいと思いますね。 どうぞ。